ユア・ストーリーのテーマは「大人になれ」か、それとも(ゲームは)「もう一つの現実だ」か
「映画ドラゴンクエスト ユア・ストーリー」(ユアスト)のテーマをどう理解しているかが作品を好ましく評価するかどうかに影響するかが気になったことがあり、2年ほど前にツイッターでアンケートをとってみたことがあります。
アンケートを取る際に選択肢として取り上げるテーマ(メッセージ)としては、作中の登場人物の発言の中から作品に批判的な文脈で引用されがちな「大人になれ」「現実に戻りなさい」というゲームに否定的なものと、この発言に近接してこれに対応するものとして発言されている(ゲームは)「もう一つの現実だ」というゲームに肯定的なものを取り上げました。ユアストのテーマはこれらのいずれでもないという理解*1もありえるところですが、ここではテーマ理解として対比しやすいものを選び、どちらで理解しているかと、合わせてユアストが嫌いか好きかを聞いてみました。
その結果は以下のようなものです。
【拡散希望】
— ましゅー (@mashuu_roleplay) 2021年5月24日
「映画ドラゴンクエスト ユア・ストーリー」のテーマ(メッセージ)について、
1.「大人になれ」「現実に戻りなさい」
2. ゲームは「もう一つの現実だ」
のどちらで捉えたかで作品の好き嫌いが変わっているかが気になっているので、教えてほしい!
ユアストのテーマ(メッセージ)は…
この結果をざっくりとまとめると
- ユアストのテーマ理解についてはゲームに否定的な「大人になれ」「現実に戻りなさい」とゲームに肯定的な(ゲームは)「もう一つの現実だ」の理解がおよそ半々。
- 「大人になれ」「現実に戻りなさい」とゲームに否定的なテーマと理解した人のほとんどはユアストが嫌い
- 「もう一つの現実だ」とゲームに肯定的なテーマと理解した人だと好き嫌いがおよそ半分ずつ
ということになります。
テーマ理解で好き嫌いに差が出ているのではないか疑ってはいましたが、ここまで大きな差が出たことは意外でした。*2
ミルドラース(ウイルス)の発言をユアストのテーマと捉えて良いか
それでは、ユアストはゲームに肯定的なのでしょうか? それとも否定的なのでしょうか?
常識的に考えれば、肯定的なはずです。国民的なゲームの映画化においてゲームについてわざわざ否定的なメッセージを発するのは不自然ですし、ドラクエというゲームのファンを観客として想定しているはずなのに、その層にウケなそうだからです。
約半数にテーマであると捉えられた「大人になれ」「現実に戻りなさい」いった発言を作中でしているのは、映画の中のラスボスであるミルドラース(ウイルス)だけであり、作中に他にゲームに否定的なメッセージを発する主体や、ゲームに否定的なエピソードなどはありません。
つまり、この映画のテーマはゲームに否定的である、と捉えるためにはミルドラースの発言こそが映画の制作陣が届けたいメッセージだった、と読み取れる必要があります。
ミルドラース(ウイルス)の発言の文脈
ミルドラースとのラストバトルに至る直前に、主人公は父の仇であり長年の宿敵であるゲマとの対決に挑みます。部下のモンスターたちとの集団戦を経てゲマとの直接対決に挑み、最後には息子であり天空の勇者であるアルスの助けを得てゲマを倒します。ラストバトルとして十分な分量です。因縁のあるゲマも倒し、ここから原作のラスボスではありながら印象の薄いミルドラースとの闘いをどう入れ込むのか、それとも魔界への扉を閉じることでミルドラースと戦うことなく終わってしまうのか、というところで登場するのがミルドラース(ウイルス)です。
ミルドラース(ウイルス)は実際には魔界の王のミルドラースではなく、ミルドラースのキャラクターコードに擬態し、主人公が遊んでいたフルダイブ型のアーケードゲームに侵入してきた、ゲーム嫌いのハッカーが作ったウイルスです。*3 ユアストの世界自体がゲームであることについての伏線は作品中にいくつもあるのですが、原作がゲームであることをふまえたギャグ描写やサービス描写、あるいは原作の長いストーリーを映画の尺に納めるための改変と捉えることもできる程度に抑えられているものも多く、ゲーム外から敵が登場し、主人公が現実世界にあるゲーム機で遊んでいる人間である、という展開に驚いた人や展開が受け入れがたいと感じた人も多いようです。*4
さて、ミルドラース(ウイルス)の影響が画面上で明らかになり、ミルドラース(ウイルス)が倒されるまでのやりとりを確認すると以下のようなことが分かります。
- ミルドラースがハッカーの動機を「バーチャル世界の住人たちが嫌いで嫌いで仕方がない」と説明したのを
- 主人公は「そんな理由でか…そんなくだらない理由で!」との単純なセリフで打ち捨て、
- ミルドラースはハッカーの伝言として「大人になれ」と伝えて「現実に戻りなさい」と続けたところ、
- 主人公はミルドラースの攻撃の影響で、自分が現実世界の人間である記憶を明確に取り戻した上で「お前にも、お前を送り込んだ人間にも分からないだろうな」と反発し
- 昔からドラクエ5(SFCとPS2の両方)を楽しんできた回想シーンを挟み、主人公の「僕にとってゲームの世界は決してウソじゃなかった」と告げ、今回の旅も心に残っていると断言した上で、
- ミルドラームに「虚無だ 幻影だ」と言われてもゲームは「もう一つの現実だ」と反論し、
- ゲームを監視していたアンチウイルスプログラムであったスラりん*5から「冒険を成し遂げろ」と提供されたロトの剣(ワクチン)*6を受けとり、
- 主人公は一撃でミルドラースを打ち倒している
ここでの描写をまとめると「悪役は受け売りの薄っぺらいセリフをごちゃごちゃ言っていたが、主人公には一切響くことなく一蹴され、バトルでも一撃で倒されすみやかに退場した」といえるでしょう。「悪役の方にも一理あるのではないか」と思わせたり、「悪役と主人公のどちらが正しいのだろう」と悩ませるような描写はありません。
そしてミルドラース(ウイルス)退場後も、主人公は自分がゲーム外の存在、現実世界の人間であるということに気付いたにも関わらず、そのままゲームを続けてエンディングを迎えています。ヘンリーは主人公に「お前こそ本当の勇者だ」と呼び掛け、主人公もラインハットへと帰るヘンリーに対し「必ず、必ずまた会おう」と呼び掛けます*7。さらに主人公はエンディングを迎え現実の世界に帰ることになっても「お前たちは確かにいたんだ」「僕は勇者だったんだ」と述懐しています。
これらの描写を踏まえると、映画のテーマは悪役の発言にこそあったと見るのは無理があり、勝った主人公による「(ゲーム)はもう一つの現実だ」の方が映画のテーマを体現している、と読むのが素直です。映画のテーマがゲームに否定的であったと読み取ったのは観客による誤読というべきでしょう。
なぜ観客の約半数が誤読したのか
観客の半分が映画のテーマがゲームに否定的であったと誤読していたとすると、「もし誤読されなかったのであれば、ユアストの評価はもっと高くなった」という可能性があります。アンケート結果によると誤読をしなかった人でも嫌いな人の方が少し多いので、誤読がなくても広く好まれた作品にはなれなかったかもしれませんが、「賛否両論」くらいの位置付けになれたかもしれません。
観客はなぜテーマがゲームに否定的だと誤読したのでしょうか。とりあえずの仮説としては、「観客がミルドラース(ウイルス)が登場するまで映画の世界・物語に深く没入しており、それに対してゲームを描いているという伏線は比較的弱くなってしまっていた。『実はゲームだった』だというオチが観客にとって急展開にすぎて、戸惑っている間に悪役によって発せられた『大人になれ』『現実に戻りなさい』という発言の印象が強く刺さりすぎ、主人公が一蹴する小物の戯言である、という認識に至れなかった」人が一定数いたのではないか、と考えています。
制作陣はユアストをドラクエVの映画化と表現することを避けており、映画のタイトルにもVとはつけずにユア・ストーリーという副題をつけたり、予告編でも不穏な描写を含めることでVの単純な映画化ではないというヒントも出していたのですが、主人公がパパスを失うシーンや花嫁選び、幼少期との自分の対面、ゲマとの激闘などに力を入れ「かなりまじめにドラクエVをやっちゃった」が故に起きてしまった事故だったのではないかと思うのですが、いかがでしょう。
*1:例えば作中の発言をから選ぶとしても「必ず、必ずまた会おう」や「僕は、勇者だったんだ」の方がふさわしい、という理解。
*2:集まったのは60票にすぎず、またツイッターでのアンケートなので科学的な調査とはいえない、という留保は必要です。
*3:ウイルスではなく、ゲームが主人公を楽しませるために意図的に作った、「ウイルスという設定の新キャラ」だったという解釈の余地もありますが、ここは素直にゲーム外から侵入してきたウイルスである、と解釈することとします。
*4:私はなんらかのメタ的で反発の多い「オチ」があることをツイッターのタイムラインで流れる情報から察しつつも、数名の友人が高評価していることも確認できていたので、伏線を探しながら観ておりこの展開を前向きに楽しむことができました。
*5:ゲームの制作陣や映画の制作陣と近しい立場といえます。
*6:ドラクエVをテーマにしているはずなのに天空の剣ではなくロトシリーズの勇者の剣が出てくること批判的な意見もありますがこの場面ではミルドラース(ウイルス)によりドラクエVの世界は一旦破られており、天空シリーズに囚われる必然性はなくなっています。そして破られた世界を修復するのに、主人公がロトの剣を使うのは、アルスとは違った意味でゲームのプレイヤーである主人公もまた勇者である、という作品のメッセージとして理解できるでしょう。